園長室

◆ 園長メッセージ

◆2024年 3月の言葉

土 金子みすず

こっつん こっつん
打(ぶ)たれる土は
よい畠(はたけ)になって
よい麦生むよ
朝から晩まで  踏まれる土は
よい路になって 車を通すよ
打たれぬ土は  踏まれぬ土は
要らない土か
いえいえそれは 名のない草の
お宿をするよ

◆2024年 3月の言葉

様々なこと思い出す桜かな 松尾芭蕉

3月の雨のことを開花雨、花おこしの雨といいます。

いよいよ花を咲かせる時、春の季節が到来したことを

教える慈悲の雨(慈雨)です。年長の子供たちも、いよいよ

保育園を卒園して小学校に入学をし大きく羽ばたく時が

来ました。

◆2024年 年賀状の言葉

遠慶宿縁 冬ぬくし (悦山)

2023(令和5)年 盂蘭盆会

畳紙や 母の形見の 夏衣  (のぶ子作)

たたみしや ははのかたみの なつごろも

残像に面影偲ぶ 盆花火

思い出はかげのごとくに現れて永遠のありかを告げて消えていく

(金子大栄先生)

経済中心の豊かさの先に何があるのか。

豊かさは子どもをむしばむ(東井義雄先生)

毓心(育心)・・・・教育の育の旧字 読み方は いくしん と読みます。

この字は元学長 信楽先生の仏間にある額の言葉です。育の上の字は子という字が逆さまになっています。理由はお腹の中にいるときは頭がしたにあるからです。下の月の字は肉月です。よって子どもが肉ついてがまるまるしている状態を育ちがいいといいます。これがこの育の字の成り立ちです。また育つには ①巣立つという意味と②添えたつという意味があります。夏野菜のトマトやキュウリを作るときに横に添え木を立てます。そこから添え樹つという意味になります。仏の教え、普遍的な真理が添え木となって樹っている。それによって私たちの心が育てられていく。毓心にはこのような意味があります。

◆2023年 年賀状の言葉

子や孫の後に続くを待ち受けて 報恩行 なすべき命 いまだあり

◆2022年 年賀状の言葉

善し悪しのいずれを多く語りしか 老いたる おのが舌に たづぬる

甲斐和理子 甲斐 和里子は、日本の教育者。京都女子大学の前身、顕道女学院の創始者。旧姓・足利。

杉山平一 『わからない』

わからないというの詩。杉山平一先生・・・東京帝国大学文学部美学美術史学科卒業 日本の詩人

お父さんは
お母さんに怒鳴りました
こんなことわからんのか

お母さんはお兄さんを叱りました
どうしてわからないの

お兄さんは妹につっかかりました
お前はバカだなあ

妹は犬の頭をなでて
よしよしといいました

犬の名前はジョンといいます

私たちはいかに自分自身が愚かであることを分かっておらず、何でも知っていると思い込んで他の人を見下してギスギスした社会を生きているのではないでしょうか。

妹のよしよしという言葉に何かほっとするものを感じます。

杉山平一 『生』

ものをとりに部屋へ入って何をとりにきたか忘れてもどることがある

もどる途中でハタと思い出すことがあるがそのときはすばらしい 

身体がさきにこの世へ出てきてしまったのである

その用事は何であったかいつの日か思い当るときのある人は

幸福である 

思い出せぬまま僕はすごすごあの世へもどる

杉山平一さんの、『生』という詩です。

◆2011年10月作文より

愛犬リ-

昭和56年12月6日、これは私の誕生日だ。私が生まれたときもうすでにリーは生 まれ、家の家族になっていた。私はリーより2歳年下だった。まだ幼い私はリーが家の家族だとは知らなかった。私が4歳になったとき、リーと見つめ合いなが ら写った写真が今でも残っている。世界中生きとし生けるもの沢山の生き物がいきている。その中で人間に生まれた私、犬に生まれたリーが出会えたのだ。とて も不思議だ。その年はまだ若くて元気だった。しかし、だんだん衰えていくリーの姿は不思議でならなかった。一日エサをやり忘れたこともあった。しかし、 リーは何一つハブテなかった。そんなリーを見ていると自分がとても恥ずかしかった。ちょっと嫌なことがあるとすぐにハブテる自分。なんとわがままだ。

つ いにリーは目が見えなくなった。今までは目が見えていて小屋の中にウンチをすることもなかった。しかし目が見えなくなってからは、小屋の中にウンチをする こともたびたびあった。その目が見えないまま3ヶ月が過ぎた。平成3年1991年12月23日、この日は天皇誕生日だ。朝なんともなく動き回っていた リー。それが夕方4時16分頃、私が見てみると倒れてもがいていた。私はそんなに苦しんでいるリーをじっと見つめて、リーがんばれ と小さな声で叫んだ。 リーは目は見えなくても耳だけはかすかに聞こえていた。しばらくするとリーは起きあがった。私はよかったと思った。そして、私はしばらくその場を離れてい た。そしてもう一度来てみた。

すると、リーは石段に首を垂らし舌を出して息をひきとっていた。私はその時何がどうなっているのか分からなかった。おどろきの余り、腰を抜かしてしまった。リーが死んだのは四時十二分位だった。あんなに朝まで元気だったリーが死んだとは、とても信じられない。

私 はリーが死んでからやっと気がついた。リーは私にお念仏をしなさいと教えてくれた本当は仏さまなんだ。リーは自分の体を犠牲にしてまで教えてくれた。その ためにも、リーの死を無駄にしないためにも、お念仏でリーを思い出し、リーにあって、感謝しなければならない。         私は今になって、こう思う。リーはきっと死 ぬときに 私を求めたに違いない。リー本当にすまなかった。私はお念仏でリーと又、会いたい。リーまた、親さまのもとで会おうね。さらば、リーよ。

こ れは浄土真宗のお念仏薫る家庭の小学校4年生の女子生徒の作文です。ここには命そのものに深く目覚める視点があります。犬をペットという愛玩物としてでは なく、その存在そのものが自分に大切な気づきを与えてくれる仏という働きとして拝んでいる生き方がありますーー本多静芳 氏

保育や教育、養護、食育を通して子供達に何を伝えていくのか。子供達は何を学ぶのか。命そのものに気づき目覚める視点を持つ、そのことであります。


成唯識論より共同安危、悲喜共同
安らかなるものも、悲しみも喜びも、共にひきうけていく


入学式や卒園式等において語られる園長の式辞の中から抜粋して掲載しています。

梅雨も明け、夏になり蝉が鳴き始めると、いつも思い出す言葉があります。

『蟪蛄(けいこ)春秋を知らず、

伊虫(いちゅう)あに朱陽

(しゅよう)の節を知らんや』

これは中国の荘子の言葉だと思いますが、その意味は「蝉(蛄)は、春や秋という季節を
知らない。春や秋を知らない蝉にとって、今が夏だということをどうして知ることが出来よ
うか」ということです。
そうですね。夏に生まれ夏に死んでいく蝉は、他の季節(春、秋、冬)を知りません。それ
どころか、今が夏だということも知りよううがないのです。
今が夏だと分かるのは、他の季節を知って初めて分かることです。

前後の季節、春と秋を知って初めて夏がわかるように
私たちも生まれる前(春)や死んだ後(秋)のことを知って、初めて「この世」がわかります。

貴方は自分の命が来て、命が宿業を背負ってこの世を生きて、その命が帰っていく場所を

知っていますかと問いかけているように思います。

焼かれたのではない。かといって焼いたのでもない。ただ焼けたという事実のみがある

のみである。

そういう見方をするとき自他ともに傷つけなくてすむ世界が開かれてくる

のである。・・・安田理深

先生の自宅が隣からの出火で焼けた後の言葉です。私たちは他人の責任にして責めたり、

自分を責めたりばかりしていますが仏の自他共に傷つけ無い世界のあることをうれしく

有難く思います。

一人の信徳に風ひかる村・・・大谷句仏

春風をもって人に接し、秋霜をもって己を慎む。

自己に厳しく他人に優しくという意味です。

鬼とは何か。

鬼の特徴は口が裂けて、角があり、耳が無いことです。どうして耳が無いのでしょうか。

それは他人の話を聞くことがないからです。聞く耳を持たないのです。そしてさらに

自分の言いたいことだけを言い、それを他人に押しつけて従わせようとするため口が裂け

ています。

また鬼の作り出す世界を地獄と言います。字を見ると地面に犬がつながれて、お互いに

ワンワン吠え立てている状態を表す漢字になっていることにお気づきでしょうか。

その鬼はどこに居るのでしょうか。鬼は私の心の中に住んでいるのです。

人の話を聞かず自分勝手な意見を人に押しつけ従わせようとする私自身の姿を鬼といいます。

そのときの顔は鬼の形相になり口から『ちきしょう、このやろう、くそったれ、死ねー等々

』恐ろしい言葉が出てきます。あなたの心にいる鬼の姿にあなた自身は気づいていますか。

皇太子様45歳の誕生日の会見において自身も愛子様の父として、
また子育てを考える上で深い感銘をうけた詩でありますと紹介されました。

● 子が育つ魔法の言葉より(ドロシー・ロー・ノルト著) 「子は親の鏡」 ●

けなされて育つと、子どもは、人をけなすようになる
とげとげした家庭で育つと、子どもは、乱暴になる
不安な気持ちで育てると、子どもも不安になる
「かわいそうな子だ」と言って育てると、子どもはみじめな気持ちになる
子どもを馬鹿にすると、引っ込みじあんな子になる
親が他人を羨んでばかりいると、子どもも人を羨むようになる
叱りつけてばかりいると、子どもは「自分は悪い子なんだ」と思ってしまう
励ましてあげれば、子どもは、自信を持つようになる
広い心で接すれば、キレる子にはならない
誉めてあげれば、子どもは、明るい子に育つ
愛してあげれば、子どもは、人を愛することを学ぶ
認めてあげれば、子どもは、自分が好きになる
見つめてあげれば、子どもは、頑張り屋になる
分かち合うことを教えれば、子どもは、思いやりを学ぶ
親が正直であれば、子どもは、正直であることの大切さを知る
子どもに公平であれば、子どもは、正義感のある子に育つ
やさしく、思いやりをもって育てれば、子どもは、やさしい子に育つ
守ってあげれば、子どもは、強い子に育つ
和気あいあいとした家庭で育てば、
子どもは、この世はいいところだと思えるようになる


◆2010年4月入園式より保育方針・・・・保育目標達成のためにおこなう保育園の方針

1.自他共に人格が尊重され、一人一人の個性を伸ばし創造性のある養護と教育に励みます。

2.子供が安全で安心して育つのにふさわしい環境であり、人工的なものに偏らず自然の営みに直接触れる機会があり、古きものと新しきものとが共に栄え、文化の香りの高い園であることを目指します。

保育目標・・・・成長してなってほしいと願う子供の姿

1.健康で、豊かな個性と他人に対する思いやりの心があり、礼節を持って生きる子に育てよう。

2.人々が永年かけて作り出した文化や、人々が共に生きていく自然を尊重する心のある子に育てよう。

3.家庭や地域の人々と協力をして、地域を築いてきた人々とこれから社会を作っていく子供たちがお互いに連帯感を培い人間性を生かす社会を担うことのできる子に育てよう。

◆2009年4月入園式より

ぞうさん、ぞうさん,お鼻が長いのよ。

そうよ、母さんも長いのよ。 ぞうさんぞうさん、だあれが好きなの。

あのね、母さんが好きなのよ。

子象はほかの動物から、どうしてお前だけが鼻が長いんだ。みんなと違うとイジメというか言われるわけです。

それに対して子象は 母さんも長いのよ と返すわけです。さらに母さんが大好きだというわけです。

子象は自分の大好きな人に特徴が似ているのをうれしく、誇りに思っているのです。見事な返答ですね。

みなさん自分のお父さんやお母さんは大好きですか。

◆2009年4月春より

春風をもって人に接し、秋霜を持っておのれを慎む。

自分に厳しく相手ににはやさしいという自己を。そしてなおかしこい自己を確立せねばならない。

---二十一世紀に生きるきみたちへ--   司馬遼太郎

◆2008年 4月入園式より

ひとりひとりを大切にし愛情をもって保育をするとは具体的には決して無視をしない保育ということです。

マザ-テレサは愛や愛情の反対は何か。普通は憎しみや憎悪と考えるけれども反対は無視だといいました。

憎しみや憎悪はまだ相手の存在を認めている上の感情だけれども、無視の心は相手の存在すらないのです。

子供に愛情をもって接するとは決して無視をしないということであります。

◆2004年 3月卒園式より
卒園式の日はうれしく、半分悲しく辛い日でもあります。
みなさんが、心身共に成長し小学校に入学するのはとてもうれしく思います。
しかし昨年の4月に1年間の保育計画をたてた事の半分もできなかった、
してあげられなかった事を思うとき、申し訳なく後悔と慚愧の念にたえません。
そのことがとても悲しく辛いことであります。

◆2004年 1月年頭のあいさつにて
西本願寺第24代御門主様は、年頭の挨拶において、次のように申されました。
「前略・・・・仏教的なものの見方、浄土真宗的なものの考え方が世の中の対立を
和らげ資源の浪費に節度を与え心豊かに人生を完成することが資するなら
まことに喜ばしいことであります」と・・・・・

◆2003年 春
新緑なる2003年春に新園舎が完成しましたことに慶びにたえません。
日本財団様、行政関係、建築関係の皆様方の心温まるご協力をいた
だきましたこと、ここに改めて関係各位に対し深甚なる謝意を表する
次第であります。
この保育園で学んだ子供達が本園の建学の精神にふれ普遍の真理
の上に心を樹てて生きることを願います。
「樹心弘誓仏地」 読み:心を弘誓の仏地に樹(た)て 本典より
意味:自己の心を普遍の真理の上にたてて生きよ
龍谷大学元学長 信楽先生 瀬田学舎講堂「樹心館」
完成講話より

◆2003年 年頭
国内外ともに困難な問題を暴力や武力によって解決しようとする風潮が
強くなってきたように思います。暴力は次の暴力を引き起こし、次の世代
へと引き継がれます。
科学技術は確かに進歩しましたが人類が進歩したとはとても言えません。
本願寺大谷光真門主 年頭の辞より

◆2002年 年末の挨拶
いのちはそれを愛そう、愛そうとしている者のものであって
それを傷つけよう、傷つけようとしている者のものではない。
信国淳先生  呼応の教育より

◆2002年 4月
「学はその人に近づくより便たるはなし」と言った先人の言葉は学問の
基本を示したものであり、よき人格に出遇うことの大切さを教えたもの
であります。保育園は保育士や先輩、友人と遇い人格的交流をもつ、
そうゆう出遇が多様に生成してくる場でもあります。仏教でも面授と
いいます。子供達は保育士の人格を通して、共感性の心を身につけて
いくように思われます。

◆2002年 2月節分にて
<福はうち、鬼はそと>待ってください、待ってください。
その二人(福と鬼)は絶対に別れられないのです。
その豆、<福>だけを欲しがるこの私に投げてください。
(浅田正作「節分」より)

◆2002年 1月
アメリカに於ける同時多発事件など暗いニュースばかりの新世紀初頭で
ありましたが、聖徳太子の「和を以って尊しと為す」の心をお互いの心と
して一日も早く戦争が終結し、人と人とが本当に和していける世の中が
回復されることを念ぜずにはおれません。今年一年のご厚誼に感謝
申し上げます。

◆2001年 1月
本来の大地に帰らんと思うものは
本来の大地の叫びを聞いて
本来の大地に背き続けてきた非本来の自己の姿に目を覚まさなければ
なりません。一年間ありがとうございました。

◆2000年 1月
ぼく達は未清算の過去を残したまま、あまりに未来を急ぎすぎたのでは
ないかと今、思います。(渡辺義治作「再会」エピローグより)
西暦2000年という記念すべき新年を迎え、人間の心のあり方が改めて
問われる新世紀でありたいものです。
今後も変わらぬご指導の程よろしくお願い申し上げます。


■ 本の紹介

西本願寺第二十四代大谷光真門主著
「朝(あした)には紅顔(こうがん)ありて」生きていて役に立たない人などいないのです。
かりに仕事もせず、親兄弟に迷惑をかけ続けてきた
人であっても、だからといって自分は役にたたない
人間であると卑下することはないのです。
その人は、ほかの誰であっても代わりは務まらない
この世で唯一の存在なのですから・・・・。(本文より)
発売と同時に感動の声が続々と寄せられています。
是非ご覧になってみてください。

著者:大谷光真(おおたにこうしん)

著者略歴:
1945年京都生まれ。浄土真宗本願寺派第24代門主
西本願寺住職。東京大学文学部卒・龍谷大学大学院
修士課程修了、東京大学大学院修士課程修了。

西本願寺ホームページ